【要約#27】「史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち」自分を超えるとは!?

歴史・哲学・宗教

前回の「史上最強の哲学入門」は西洋哲学中心でしたが、こちらは「東洋哲学」です。

相変わらず漫画「バキ」の要素を組み込んでおり、読みやすくて、面白い。

「釈迦」や「孔子」も出てきて、東洋哲学の影響を受けている日本に住む私たちにとっては、こちらの方が馴染みやすいのではないかと思います。

「仁」(思いやりの心)と「礼」(思いやりを態度に表す)を説く孔子の考えはモロに日本文化の基礎になっています(渋沢栄一の「論語と算盤」にも書かれていますね)し、

いわゆるお釈迦さま、「釈迦」は仏教の開祖ですから、日本が受けている影響力の絶大さは言わずもがなですね。

今回、私がこの本から読み取ったエッセンスを勝手な解釈により一行に集約すると、

東洋哲学の最強の真理はすでに約36百年前にインドのヤージュニャヴァルキアが到達し、釈迦が説いた、「私は存在しない」ということであり、「知識として知っているだけではホントウに知った事にならない」(無分別智)という東洋哲学の風習に基き、宗教家は悟りを目指して修行している。

ということです。理解不能ですね笑

しかし!あきらめません!訳わからんですが、無理やり解釈しようと努力すると、要は、「私は存在しない」というのは各代表選手御三方によれば以下の通りです。

1.インドの最強哲学者ヤージュニャヴァルキヤによれば、「私」はいろんなものを認識している主体であって、認識されるものではない(認識するものを認識することはできないから)→よって、「私は決して害されない」

2.釈迦は、上記ヤージュニャヴァラキヤの哲学が誤解(認識できない「私」なのに、意識してしまう)されないよう「無我」を説き、

3.老子は、物事に名前を付ける「分別」から万物に境界(私と他人の境界もそう)ができているのであって、「分別」がなければ境界のない、混沌とした状態「道」になる、

こんな感じで「私」は存在しないそうで、悟りを開かないと理解できません笑 だって「知識として知っているだけではホントウにわかったことにならない」のが東洋哲学のスタンスなので。

でも、でもですよ!?これがごまかした屁理屈かというとそうは思えないのです!

というのも「知識として知っているだけではホントウにわかったことにならない」という考えは個人的に腑に落ちるものがありまして、「体験による理解」の重要性は確かにある、と思います。

私の場合は留学経験がそれにあたりますが、多国籍他人種クラスメイトとの議論やケンカや、異国の地の生活感、他者に対する受容態度、これらは言葉で説明しても絶望的に限界があります。ホントウに知りたいなら体験するしかない、と思います。

釈迦も自らの悟りを開いたとき「こんな悟りの境地、どうやって理解させれば良いのだ?」と一度は布教を諦めたそうです。(そういった経緯から、単に言葉による説明ではなく、悟りを開くまでのプロセス重視の教えになってるそうです)

何にせよ、体験、経験。「私」が存在しなくなる程の境地に達することができるのでしょうか?

日々日常に追われている方に、考え方の幅を持たせるのに良いかと思います。日本人の考え方の起源はここにあるのか〜と読むのも面白いと思います。

ではまた〜。

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